2011年12月22日木曜日

KFC「ブレイザー」と「美容院」と「ポー川のひかり」そしてパガニーニ「ヴァイオリン協奏曲」

日の昼食はケンタッキー・フライドチキン「ブレイザー」でした。


本日はゼミの後やっと美容院に行って参りました。カードを見たら前回行ったのは何と8月、4ヶ月ぶりです。大分長くなっておりましたので6センチ程切って戴きすっきり致しました。 私は洗髪がどうも苦手です。仰向けになって頭を垂らすと少々貧血気味になって気分が悪くなるのです。あれは何とかならないものか知らん?

 昨夜先日購入したエルマンノ・オルミ「ポー川のひかり」を鑑賞致しました。


ストーリの概略は面倒ですので映画の公式サイトから拝借致します。

イタリア、ボローニャ大学。夏期休暇中で人気の無い大学で、守衛は大量の古文書が太い釘で打ち抜かれているのを発見する。この書物の大虐殺に、学内は一転大騒ぎとなる。容疑者として浮かび上がったのは、若くして名声を得、将来を嘱望されていた哲学科の主任教授だった。近く国際舞台で論文を発表することになっていたが、前日の学年末の授業を最後に忽然と姿を消していた。
 教授はあてもなく車を走らせていた。途中でその車も捨て、車のキー、ジャケット、財布も大河ポー川へと投げ捨てわずかな所持品を手に川をたどって歩き始めた。川岸の朽ちかけの小屋を見つけた彼は、そこを住処にしようと考える。
 生活用品を買いに繰り出した町で、郵便配達の青年ダヴィデにパン屋の場所を教えてもらい、そのパン屋で若い娘ゼリンダと知り合う。次の日、小屋の修理を始めた彼の元に、配達で近くを通りかかった彼女が声をかけた。 「毎朝ここを通るから、何か持ってくるわ」
 ゼリンダが去ると、今度はダヴィデがやってきて、元煉瓦工だったと小屋を建て直す相談にのってくれた。その頃、ポー川から彼のジャケットなどが見つかり、警察は自殺を疑い始めていた。
 小屋の近所には、共同生活を営む老人たちがいた。彼らも教授に関心を持ちはじめる。小屋の修理にダヴィデが手を貸しはじめ、老人たちも加わって、立派な家が出来上がった。いつからか彼らは、イエス・キリストに似たその風貌から、この見知らぬ男を「キリストさん」と呼ぶようになっていた。親切で純朴な村の人々との交流に、自然と教授に笑顔が戻っていた。
 ところがある日、港建設のためポー川中流からの立ち退き命令が下った老人たちを助けようと、「キリストさん」はある行動にでる。それによって、一旦は自殺を疑っていた警察は彼の居所を突きとめるのだが…。

大体こう言ったお話しです。
 主人公の哲学教授は、本ばかりの生活、また人間よりも本を愛する図書館長の司祭に疑問を感じ、本を磔刑にし、自然や人々の中で生きることを選択します。彼を快く迎え入れてくれた村人の自然と共に生きる姿、そして素朴な人間同士の交わりが生き生きと描かれます。そして後に逮捕され取り調べを受けた時には、彼に敬意を払いコーヒーを出してくれた警官に、本を読むことより、こうして友人と飲む一杯のコーヒーの方が価値があると述べます。
 一方でこの映画には宗教的なテーマも暗示されます。主人公はその容貌から「キリストさん」と呼ばれますが、その呼び名ばかりでなく、人々に水をワインに変えたキリスト最初の奇跡の話や、ルカ伝にある「放蕩息子の話」などをします。


そして最後は自分が逮捕されるのを承知で村人を救おうとします。明らかに主人公にはキリストの姿が重ね合わされます。
 しかし、逮捕された彼のもとに訪れた司祭との会話で、彼は「この世の虐殺者は神だ。自分の息子さえ救わなかった。」と述べます。そして、その言葉に怒った司祭が「最後の審判の日に釈明すればいい」と言うと、「神こそこの世の苦痛について釈明すべきだ。」と答えます。
 主人公が逮捕され村人と別れる時に述べる言葉はこの作品の主題を端的に示しているように思われます。
 「自然は万物を侮辱する全てを消し去るだろう。」
 この言葉が、福島第一原発を経験した私たちに向けられた言葉であるように感ずるのは私だけでしょうか。
 取り分け、書物の世界に生きてきた私にとっては考えさせられる作品でした。

 本日の音楽はパガニーニ「ヴァイオリン協奏曲第1番」です。


それではヒラリー・ハーンの演奏で一部をどうぞ。





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