2010年12月5日日曜日

「焼きそば」と村上春樹「風の歌を聴け」とシベリウス「ヴァイオリン協奏曲」

日も大学に来ています。午前中、教員志望の在学生を対象に、教員をしている卒業生にお話しをしてもらうと言う会がございました。その卒業生と言うのが数年前の私のゼミ生で、私は係ではございませんが、私を通して依頼したと言う経緯もあり、出て参りました。久しぶりに会いましたが、まだ卒業してから数年しか経っていないのに、としっかりして大人っぽくなっていました。

 朝は、バケットと昨夜の残りのビーフシチューにサラダを戴きましたので、昼食は「焼きそば」に致しました。会が終わった後、卒業生と私のお部屋でお茶を戴きながらお話しをしておりましたので、少し遅くなって仕舞いました。

果物が切れておりましたので、お林檎を買って参りました。「熟れっこりんご・サンふじ」と言うもので、他のに比べると少々お高かったのですが、美味しそうでしたのでこれに致しました。それから、付箋紙も買っておきました。

 本日は、先日「ノルウェイの森」のお話しを致しましたので、ついでに「風の歌を聴け」のお話しをしたいと思います。

この小説は村上春樹の処女作であり、彼の小説家としての出発点として重要な作品だと思います。
 この小説は語り手の「僕」が1970年の8月8日から26日の間に起こったことを物語ろうとしているという所から始まります。このいわば物語の枠の中で「僕」はデレク・ハートフィールドという架空の作家に言及し、「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ」という言葉を引用します。そしてこの言葉はこの「風の歌を聴け」の中で取られている文体上のストラテジーでもあります。
 この物語の核になる出来事は、彼がつき合っていたガールフレンドが首吊り自殺をしたことです。このことが語られるのは物語の半ばで、何気なく挿入され、しかも彼女は「仏文科の女の子」「3番目に寝た子」と名前すら語られません。さらに、彼女との関係は詳しく書かれることもなく、「当時の記録によれば、1969年の8月15日から翌年の4月3日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。」と、数値という「ものさし」で計られることになります。そして、6922本目の煙草を吸っているときに彼女の死を知らされたと述べられます。彼女との関係は、少なくとも月に7回強のセックスをしていることを考えると、かなり親密であったことが推測できます。そして、彼女が死んだのは、恐らく1969年の4月3日であり、この物語が始まる4ヶ月ほど前と言うことになります。
 しかし、この小説の中ではこの事件ははるか昔に起こったように距離を置いて語られています。 だがそのような物語の語り口とは裏腹に、彼女の死は「僕」に大きな影響を与えています。つまり、今まで親しくつき合っていた女性がある時突然自殺し、理由も全く分からない。これこれしかじかの状況を経て死に至ったというような論理的連続性は絶たれ、存在していたものがある時突然存在しなくなる。その間には埋めようのない亀裂が横たわっているのです。「僕」がラジオのディスク・ジョッキーを聞く場面 で「ON」「OFF」という言葉が出て来ますが、この言葉は象徴的です。スイッチを入れればディスク・ジョッキーが語りかけてきて、切った瞬間にそれは消滅する。彼女の自殺が「僕」にもたらした世界観とはそういうものです。時間はそして世界は因果律によってクロノロジカルに連続する、いわばアナログ的なものではなく、一瞬一瞬現れては消えて行くデジタルなものだという認識です。そして人と人の間にも埋めがたい亀裂が存在するという認識です。
 この小説には「鼠」という友人が登場します。彼は学生運動が盛んだった60年代をともに生きた親友です。60年代は、それがたとえ吉本隆明の所謂「共同幻想」であったとしても、学生たちが共通の観念・価値観を共有し得た時代でした。だが、それもプツっと消滅し、「鼠」は自分の「居場所」を失って仕舞います。 60年代と70年代との間で歴史に亀裂が入り、学生たちは共通の価値観を失いバラバラになる。現代の世界とはそういうものだ。断片の集積に過ぎず、全てのものが現れては消えて行き、その間には何の意味の繋がりもありはしない。そのような認識を「僕」は持たざるを得ないのです。
 「双子の女の子」が「小指のない女の子」が彼の前に現れそして消えて行く。そしてそれ故「僕」は世界との間に距離を置こうとするのです。何にコミットしようとそれはやがては消え去り、喪失感を残すだけなのですから。
 そしてこのような認識はこの小説の構造にも明確に反映されています。この小説は、不連続で細かな断片から構成され、時間的に連続した物語として語られることはありません。 この小説は、現代世界の一つの在り様を明確に示しているという点で優れた小説です。
 それが如何に悲観的なものであろうが、私たちはそれをじっと見据えその中で生きていかなければならないのですから。
 村上春樹のその後の作品は、謂わば、この断片化された世界を繋ぐ何物かの模索がテーマとなっていると言ってもいいでしょう。それ故、この作品は村上春樹の出発点として押さえておく必要があると思います。
 二日も続けて詰まらぬ「講義」をして仕舞いました。失礼。

 本日のお昼の音楽はシベリウス「ヴァイオリン協奏曲」に致しました。

ヒラリー・ハーンの演奏は埋め込み無効となっておりますので、先日も貼ったような気が致しますが、諏訪内晶子さんの演奏で第1楽章を貼っておきます。諏訪内さんの演奏ももちろんいいですよ。





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