馬鹿なことをして仕舞いました。本日は2限演習、3限ゼミですので、寒いからおでんでも戴こうと思いつつ、急いで最寄りのセブンイレブンに出かけましたところ、またお財布を忘れていました。再び、買いに出る余裕もなく、悔しくもあるので本日は断食日と致します。と言っても、先ほど学生に広島土産(?)の「生もみじ」と言うお菓子を頂きましたので、一つ戴いておくことに致します。
「もみじお饅頭」も戴いたことはありますが、これは皮が福岡の
鈴掛の円餅のように、もっちりした皮になっています。美味しく戴きました。お腹が空いたら後で「たこ焼き」でも買って来ようと思います。
本日は
夏目漱石の命日です。夏目漱石は私が文学に傾くようになる一つの契機ともなった作家です。小学校4年の頃に、初めて
「三四郎」を読みました。今から思うと小学4年生に何が面白かったのか定かではございませんが、ともかく、とても面白く感じ、その後、次々と漱石の小説を読みました。高校に入る頃に岩波の
「漱石全集」の配本が始まりました。
毎月発売日になると、神田の三省堂や書泉ブックマート、或いは、日本橋丸善、新宿紀伊國屋などに行っては、お小遣いで買い揃えました。一巻3000円ほどで、全28巻+別冊、計29巻ありますので、経済的には結構大変でした。実を言えば、時々(頻繁に)母に言って援助してもらいましたけれど。
(ここで学生が来たので一時中断。ゼミを終えてから、お腹が空いたので
「たこ焼き」を買って参りました。戴きま~す。)
夏目漱石は1867年(慶応3年)に東京で生まれました。漱石の年齢はそのまま明治の年号と重なります。漱石は、明治の時代を、その文明開化の中心である東京で生きたことになります。その時代の影響は漱石の人生に確実に刻印されることになります。
漱石は、漢文学を好み、二松学舎に入学しますが、「此の文明開化の世の中に漢学者になつた処で仕方なし」と言って、一年余りで退学し、大学予備門に入るため成立学舎に入学して英語を学ぶようになります。やがて、出来たばかりの東京帝国大学・英文科に入学し、大学院で学んだ後、英語教師となり、松山、熊本へと赴任します。しかし、漱石は後に、「英文学に欺かれた」と述懐し、英文学も漢文学のようなものと思って始めたが、全く異質なものだったと嘆息しています。そして、熊本在任中に文部省より英国への留学命令が下され、1900年から1903年迄、英国に留学することになります。
この二年間の英国留学は、漱石にとって極めて困難なものであったと同時に、彼が文学と正面から向かい合う契機ともなりました。漱石は『文学論』の序文で、英文学は漢文学にこれ程好悪が分かれるのは、両者が全く異質なものだからに他ならない、そこで文学とは何かと言う根本的な問題を解釈してみようと決心したと述べています。こうして書かれたのが『文学論』です。
この時期、漱石は人文学から物理学に至る様々な書物を大量に読み漁り、西洋文化の根幹をかなりの程度まで理解していたと思われます。
帰国すると漱石は東京帝国大学で英文学を講じるようになりますが、『文学評論』や当時の学生が残した講義ノートを見ると、今から見ても優れた内容になっています。
やがて、漱石は大学を辞し、朝日新聞社に入って小説を書くようになりますが、特に、三部作(『三四郎』『それから』『門』)以降の作品では、人間の個我の問題をテーマにしています。これは、漱石より後の時代に、プルーストや英国のモダニスト(ロレンス、ウルフ、ジョイスなど)が扱った問題でもあります。漱石はこれらの作家に先立って自我の問題を扱った小説を書いたと言うことになります。そして、それは決して偶然ではありません。漱石は当時のヨーロッパの知の潮流を正確に理解し、ヨーロッパの作家たちに先駆けて独力でそこに辿り着いたと考えることが出来ます。
漱石は、英文学は分からない、嫌いだと言いながら、それに正面から立ち向かいました。それは当時の欧化政策の中で、エリートに求められた宿命でもありました。そして、神経衰弱に悩まされながらも研究に励み、英文学のみならず、西欧文化の根幹を最もよく理解していた知識人でした。実は、明治以降現在までの日本の歴史を振り返っても、実に希有な存在だったと言わざるを得ません。ここでは論ずることは出来ませんが、明治以降の文学史を振り返ると、西欧文学の移入は、漱石の言葉を借りれば、甚だ「上滑り」のものだったと言わざるを得ません。それは文学ばかりではありません。例えば「和魂洋才」などという言葉がありますが、そこには西欧の技術は優れているかもしれないが、精神性は日本の方が優れているのであり、西欧からは技術だけを学べばよいという傲慢な態度が隠されているように思われます。しかし、精神性を持たない文化などありませんし、また、どれが優れどれが劣っているなどということもありません。そして、異文化から何かを学ぼうとするとき、その文化の根底に横たわる思想を知ろうと努力することなしには恐らく何も学び得ないのではないかと思われます。残念ながら、現代に至るまで、漱石の批判は生きているような気がしてなりません。昨今の状況を見ても、どうも異文化を謙虚に理解しようとする姿勢よりも、日本の精神の優位性をしきりに強調しようとする声が強いような気がしてなりません。漱石が生きていた時代から100年近く経っていますが、未だに漱石から学ぶべきことは多くあるように思います。
今日もつまらぬことを長々と書いてしまいました。失礼。
本日の音楽は
マーラー「交響曲第1番(巨人)」です。この曲は18世紀のドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウルの小説「タイタン(巨人)」を元にしていますが、ジャン・パウルは「シューマンの指」でも言及されていましたね。
本日は
インバル/フィルハーモニア管弦楽団の演奏で第1楽章を貼っておきます。