本日の昼食は「ツナトマトサンド」と「胡麻団子」です。
日曜日に朝吹真理子「きことわ」を読みました。
書評などを読みますと、絶賛されているようですね。確かにそれなりによく書けているとは思います。然し、はっきり言って絶賛されるほどの小説とは思えません。
この小説は葉山の別荘に夏を過ごす貴子(きこ)と、彼女と姉妹のように仲よく遊ぶ管理人の娘で7歳年上の永遠子のお話しです。貴子の母親春子が亡くなり別荘にも来なくなって15年後、その別荘の処分を機に、二人は再会します。
彼女たちの意識は過去と現在とを行き来します。記憶と現実との齟齬、夢と現実の狭間、太古から流れる時間と個の意識としての時間、そのようなテーマがこの作品の骨格をなしています。
しかし、このようなテーマは決して目新しいものではありません。例えば、記憶とは、謂わば、意識の中で後から編輯されたものであると言う考え方は、現代文学・思想を囓っているものなら殆ど常識と言っても過言ではありません。 例えば、フロイトは20世紀初頭、性的なトラウマは、そのトラウマの原因となる出来事が発生した時点ではなく、その人が思春期になり、その出来事が性的な意味を持ち得るようになった時点で、トラウマになるのだと言っています。
文学作品で言えば、例えば以前取り上げた奥泉光さんの「ノヴァーリスの引用」では、記憶と現実との齟齬の問題から、人間の記憶とは何か、そして現実とは何かと言うテーマに発展させています。 また、もう一つのモチーフである、夢と現実との問題は、例えば、渋澤龍彦の「眠り姫」などにおいて、もっと明確な形で取り上げられています。
結構いい小説だとは思うのですが、何だかこぢんまり纏まって仕舞っているような気が致します。
大江健三郎、中上健次、村上春樹、村上龍、島田雅彦、高橋源一郎、奥泉光などには、好き嫌いは兎も角、独自の世界観と表現方法が見られました。彼らの小説にはそれまでとは異なった世界の見え方を提供してくれる視点がありました。最近はそう言う大柄な新人が中々出て来ません。
もしかしたら、最近の方は余り本を読んでいないのかも知れません。少なくとも、世界の文学・思想で現在何が問題になっているのかと言う、T.S. エリオットの所謂「歴史意識」('historical sense')が欠けているような気が致します。また、現代小説にはメタフィクションと呼ばれる小説についての小説もありますが、現代は小説とは何かと言うこと自体が大きな問題となっています。そして、それに伴い、優れた現代作家は方法論に対する鋭い意識を持っていますが、最近の芥川賞を受賞した作家は方法論の意識が希薄であるような気が致します。それから、石原慎太郎のような最早小説家とも言えないような人物が審査員をしていると言うのも如何なものかと思います。
少々堅苦しいことを書いてしまいました。ご容赦下さい。
本日はジャニーヌ・ヤンセンのファースト・アルバムを聴いております。
以前にも何回か貼りましたが、このアルバムにもおさめられている「シンドラーズ・リストのテーマ」を、本日はイツァーク・パールマンのコンサートでの演奏で貼っておきます。
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