本日の昼食は、近くの甘味処で「おいなりさん」と「おはぎ」を買って参りました。
おいなりさん3個は多すぎましたので、2個戴き1個は自宅に持ち帰ります。ふと思ったのですが、「いちご大福」があるのですから、「いちごおはぎ」があってもよさそうなものです。今度、おはぎに苺を入れてみようか知らん?
私が時々利用するこの甘味処はかなりご高齢のご夫婦がやっていらっしゃいます。以前、閉店になって、1月くらい経ってから復活したことがございます。何時までもお元気に続けて欲しいものですが、何時閉店するかわかりません。
さて、本日は先日の予告通り、
オスカー・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde)の
「サロメ」(Salomé)のお話しを致します。
ワイルドは英国世紀末作家と呼ばれますが、実はアイルランドの支配者階級(アセンダンシー)に属す家に生まれました。ダブリンのトリニティーカレジを経て、英国に渡り、オックスフォード大学で学びます。
ジョン・ラスキンの講義を聴き、とりわけ、ウォルター・ペイターの影響を受けて、所謂、世紀末耽美主義の代表的作家となります。彼の唯一の小説
「ドリアン・グレイの肖像」や「サロメ」にも耽美主義的な要素が色濃く出ています。また、私生活においても、所謂「ダンディー」として、派手な服装に身を包み、また、アルフレッド・ダグラス卿とのホモセクシュアルな関係が訴訟沙汰となり刑務所に投獄されてもいます。(当時は同性愛は法律で禁止されていました。)尚、「サロメ」は最初フランス語で書かれ、英語に翻訳したのはこのダグラス卿です。
しかし、ワイルドはとても複雑な作家で、例えば、彼の書いた童話
「幸福の王子」などは、極めて道徳的な作品のように見えます。このような二面性はどう解釈したらよいのでしょうか?
当時の英国は産業革命が進展し、工場経営などで利益を上げ経済力を付けた中産階級が勢力を持つようになります。彼らは労働者に安い賃金で過酷な労働を強いて収益を上げて行きます。彼らの目的は、実際には、利益追求でしたが、それを正当化するため、地味な衣服を身に纏い、ピューリタン的な「勤勉の美徳」「労働の価値」などと言った道徳を説きます。ワイルドは、派手な衣装を纏い、耽美主義・快楽主義的な作品を書くことによって、そのような偽善的なブルジョワ主義に真っ向から対決しようとします。
ワイルドは後に獄中にて De Profundis (「獄中記」、原題はラテン語を直訳すると「深淵より」)を書き、カトリックに改宗します。恐らく、本質的には極めて道徳的な観念を持っていたのだはないかと考えられます。
さて、「サロメ」ですが、この作品は新約聖書(マタイ福音書14章など)を基にしています。
因みに、フローベールも「三つの物語」の中の一篇「ヘロディアス」で同じ箇所を基にした物語を書いています。
ヘロデ王は兄の妻ヘローディアスに惹かれ、兄を殺害し妻とします。ヘローディアスの娘がサロメです。ヘロデ王にとっては姪にあたります。ヘロデ王はこのことを非難するヨカナーン(聖書の洗礼者ヨハネ John the Baptist)を捕らえ監禁しています。サロメはヨカナーンの肉体的な美しさに惹かれ口説こうとしますが、ヨカナーンはヘロデとヘロディアスの所業、そしてその娘であるサロメを激しく非難します。一方、ヘロデ王は姪であるにもかかわらず、サロメの美しさに魅せられています。そして、宴会でサロメに踊るようにと促しますが、サロメは踊ろうとはしません。ヘロデ王は諦めず、何でも上げるから踊るように言います。そこで、サロメは官能的なダンスを踊ります。そして、その後で約束通り、欲しいものをくれるようにと言います。それは、ヨカナーンの首です。ヘロデ王は躊躇するものの約束したので、それをサロメに与えます。劇では、銀の更にヨカナーンの首が載せられ舞台に登場し、サロメはその口にキッスをします。しかし、ヘロデ王はそのようなサロメを恐れて処刑し、最後はサロメも死にます。
この劇には相対立する二つの価値観・イメージが現れます。19世紀の詩人・評論家のマシュー・アーノルドはその有名な著書 Culture and Anarchy (「教養と無秩序」岩波文庫)の第4章 Hebraism and Hellenism (ヘブライ主義とヘレニズム、ヘブライ主義とはキリスト教的価値観、ヘレニズムはギリシャ的価値観)において、ヨーロッパ文化には二つの大きな流れがあると述べています。それが「ヘブルーイズム」と「ヘレニズム」です。例えば、中世はキリスト教の時代であり、ヘブルーイズムが強い時代でした。ヘブルーイズムでは人間性悪説がとられ、人間の肉体・欲望は悪であり、抑圧すべきものと考えられます。それに対し、ルネサンスではギリシャへの回帰が謳われます。ギリシャ時代の考え方は、例えば、オリンピックや彫刻などからも窺えるように、人間の肉体は決して悪ではなく美として見られています。ルネサンスとは謂わばヒューマニズムの時代です。つまり、人間とは、肉体も含め、無限の可能性を持つ素晴らしいものだと言う考え方です。
実は聖書の描かれる時代は、ギリシャ的な考え方から、キリスト教的な考え方へと移行する時期にあたります。「サロメ」におけるサロメとヨカナーンの関係も、ヘレニズムを代表するサロメと、ヘブルーイズムを代表するヨカナーン、この二つの価値観の対立と見ることが出来ます。
サロメは月や百合のイメージと結び付けられます。月はギリシャの月の女神アルテミス。アルテミスは狩猟の女神であると同時に純潔の女神でもあります。また、古代ギリシャでは百合は純潔を象徴します。こうして、サロメはヘレニズムのイメージと結び付けられると同時に彼女が処女であることが暗示されます。彼女はヨカナーンの肉体的な美しさに惹かれますが、これもギリシャ的な考え方では決して悪いことではありません。しかし、キリスト教的な価値観を持つヨカナーンにとっては明確に悪なのです。
このようにこの作品には2つの価値観の闘いが見られますが、作者がどちらの価値観を肯定しているのかは明らかにはされません。ワイルドは「ドリアン・グレイの肖像」の序文で、「道徳的あるいは非道徳的と言った書物などは存在しない。よく書けているか、書けていないか、それだけだ。」と言っています。それは、文学作品を道徳と言う観点から評価することは出来ないと言うことです。
長くなりましたのでこの辺りにしておきます。私はワイルドの専門家でもありませんし、ここに書いたことは私見に過ぎませんので、そのまま鵜呑みにはしないで下さい。
本日のお昼の音楽はジャクリーヌ・デュプレの演奏でシューマン「チェロ協奏曲」を聴きました。
それでは第1楽章を貼っておきます。