ラッセル/ホワイトヘッドの「プリンキピア・マテマティカ」読んだことありますか?その中で次のような集合に関する問題が取り上げられています。
自分自身を元として持たない集合の全体を T とする。T は T に含まれるか?
この場合、T が T に含まれると仮定すると、T は T の元となり、定義から T は T に含まれないと言う結論になる。また、T が T に含まれないと仮定すると、定義により T は T に含まれると言う結論になる。つまり、この問題の解答は決定不能だと言うことになる。分かる?
「自分自身を元として持たない」 と言った自分自身に関する言及を自己言及といいますが、ラッセルはこのような自己言及は、謂わば、論理的なレベルの侵犯であるとみなし、そのような設定自体を禁止してしまいます。
ちょっと分かりにくいかも知れないので、上の問題が意味することを、文章表現で表して見ましょう。例えば「この文章は偽である。」と言う文章がある。「この文章」とはそれ自体のことを指すので、自己言及になります。この文章は真か偽か考えてみてください。分かりましたか?答えは、真偽は決定できないと言うことです。
この文章が真であると仮定すると、「この文章は偽である。」となります。また、偽であると仮定すると、「この文章は偽である。」は偽なので、この文章は真と言うことになります。それ故この文章の真偽は決定不能です。
ゲーデルはこの問題をラッセルのように忌避することなく正面から取り組み「ゲーデルの不完全性定理」を完成しました。数学では完全性と無矛盾性が求められますが、ゲーデルは無矛盾な公理系では必ず記述できないものが出てくる(完全性が損なわれる)、逆の言い方をすれば、完全な公理系では、「A=A かつ A≠A 」と言った矛盾が必ず生ずることを証明してしまいました。いやー、困ったことになりました。(何も困らないですって?)
この問題は数学上の大きな問題であるばかりでなく、論理や思考の問題でもあります。それ故、哲学や文学・批評の分野にも大きな影響を与えました。例えば、ポストモダン小説によく見られる自己言及やメタ・フィクションもこの問題に大きく関わってきます。日本の小説で言えば、安部公房の「人間そっくり」や「箱男」などはもろにゲーデル的なテーマを扱っていると言えます。
写真の本、ダグラス・ホフスッタッターの「ゲーデル・エッシャー・バッハ」はゲーデルの不完全性定理を核に、それに纏わる様々な問題を、分かりやすく(ちょっと数式とかも出てきますけれど)、面白く(本当に面白いですよ)、書いている本で知的好奇心を大いに擽られます。H氏は大学生の頃この本を読んで大いに啓発されました。エッシャーやバッハもこの問題上で語られますが、H氏はエッシャーもバッハも大好きなので、とても楽しく読みました。例えば、写真右のエッシャーの絵の地と図の関係、バッハのカノンやフーガの技法に見られる旋律の無限上昇を思わせる手法などをこの問題との関わりから論じています。ともかく騙されたと思って読んでみてください。ワクワクしちゃいますよ。(本当か知らん?)