本日の昼食は「カレーパン」と一昨日の残りの「デニッシュコロン」です。
昨夜はまた悪夢を見ました。私は何故か孤島に一人取り残されています。人は私一人で永遠に救助されないことも分かっています。私は荒涼とした海辺で夕焼けの空と海を見ています。でも、そこに美しさはありません。美しさとは人間的な感情です。絶対的な孤独の中で見る風景は非人間的なものであり、意味のない赤裸々な「物」として立ち現れます。夢の中でそのことを痛感致しました。
目を覚まして夢を反芻しているうちに、サルトルの小説「嘔吐」を思い出しました。
この小説のエピグラフにはセリーヌ(好きな作家です。)から引用されています。
"C'est un garçon sans importance collective, c'est tout juste un individu."
「彼は社会的に重要な人物ではない、正真正銘の一個人である。」
主人公のロカンタンは人間の世界に住んでいますが、絶対的な孤独のうちに生きています。彼は、マロニエの木の根や石を見て吐き気を催しますが、意味を持たぬ裸の存在そのものに対する嘔吐感です。(この本は学生時代に読んだものですが、沢山書き込みがしてあって可愛らしい!)
私たちは人間のネットワークの中にあってこそ、「物」に意味や美しさと言ったものを感じる ー そんなことを考えました。また、もしかしたら私の中には癒しがたい孤独感があるのではないか?などとも考えましたが、それはどうでもいいことです。人間は誰しも究極的には孤独なものです。カミュは不条理から逃げずに直面しろといいますが、私は、自覚的な回避は決して悪いことだとは思いません。そのような認識は回避することに致します。
お昼を戴きながら、録画した「こだわり人物伝:ショパン」を見ました。語り手が平野啓一郎と言うのは如何なものかと思いましたが、時々出てくるだけなのでさほど気にはなりませんでした。平野啓一郎は、ショパンを中心に、彼の友人ドラクロワ、愛人サンドなどの芸術家を描いた「葬送」を書いています。
ショパンは父親がポーランドに移民したフランス人で母親はポーランド人です。平野啓一郎によりますと、ショパンの曲には、ヨーロッパ的なものとポーランドの土着的なものとがバランスよく混ざっているとのことですが、それは或る意味では言えているのではないかと思います。ショパンは4歳からピアノを弾き始め、6歳の時に初めて先生が付きますが、シヴニーと言うヴァイオリニストだったそうです。彼は当時余り流行っていなかったバッハをショパンに弾かせたそうです。(やっぱりね~。バッハ大先生の曲をしっかりやらないと。)その後、先生はエルスネルと言う作曲家に替わり、16歳で音楽学校に入ります。当時ワルシャワで流行っていたオペラなどのオーケストラの曲を作曲するように期待され書いたのが「ピアノ協奏曲第1番」だと言うことです。平野啓一郎がこの曲のベストパフォーマンスとして挙げたのは、マルタ・アルゲリッチの1968年の演奏でしたが、この点については私も全く同感です。
結構勉強になりました。今夜は第二回が放送されますので見ることに致します。
と言う訳で本日のお昼の音楽はマルタ・アルゲリッチ1968年録音のショパン「ピアノ協奏曲第1番」を効くことに致します。残念ながら68年の演奏がございませんので、デュトワ/N響との共演で第1楽章を貼っておきます。
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